まず、手持ちの各史料の内容のうち、蝶(花)などの道具に関する部分をまとめてみます。
史料名 | 内容 |
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投扇新興 | (枕の事)一、塗まくら或は蒔絵いつかけ等、物ずき次第、但し蒔絵には、銘之内にて絵柄能を用ゆ |
投扇新興 | (扇の事)一、金銀の扇に極彩色にて、山桜あるひは紅葉等、銘の内にて絵柄能を書べし。骨は十二軒、黒塗蒔絵、毛ぼの等をもちゆ、要は金銀たるべし |
(寛政版) 扇容曲 |
花は裁にても紙にても六尺五分四方にして、角を斂形に折返す也、内之浪の鳥目八つ、紙に包入るゝ也、扨六寸五分の紙二枚、角々入違にして右の鳥目を包み、打紐にても水引にても結ぶ也 |
蝶は、現在ではイチョウの葉のような形に作られている物がほとんどで、板や厚紙などをベースにして表面を飾り、両脇に鈴を下げ、おもりに鉛や硬貨を使ったりしていますが、この形の蝶が最初に作られたのがいつか、どういう経緯をたどって現在の形が定着してきたのかはまだよくわかっていないそうです。
投壺と違い、主に庶民の間で気楽に遊ばれてきた投扇興では、道具もそこらへんにある材料で作った「消耗品」であったらしく、江戸時代や明治時代に実際に使われていた枕や蝶はほとんど現存していません。特に、紙で硬貨を包んで作る「おひねり」や「花」と呼ばれる的は望むべくもありません。
東京国立博物館には、投扇興の起源と言われる投楽散人其扇の伝説にある、まさに昆虫の蝶そのままの形の蝶が保存されています。
錦の小袋を利用して作られており、蝶の羽の部分だけでなく、胴体や頭、さらに触角まで丁寧に作り込まれています。かなり高価な物だったのではないでしょうか?
この蝶が乗っている枕は、現在どこにでもある枕と同じように傷だらけで、実際に遊ばれた物であること、そして当時も「コツリ」がよく見られたことを物語っています。蝶そのものの年代は定かではありませんが、この枕の裏には「天明二年十二月之を求む」という覚え書きがあるそうです。
天明二年(1782年)といえば、上記の投楽散人其扇の伝説が載っている「投扇興図式」が発行された安永二年(1773年)のわずか9年後ですから、投扇興が遊ばれ始めた初期に使われていた、貴重な道具ということになります。
続いて、こちらの写真の蝶も江戸時代の物ですが、正確な年代などは不明です。
この逆三角形の蝶は今では見られませんが、東都浅草投扇興保存振興会の会員証にこの形を模した図が印刷されていたり、春の大会で使用される記録用のスタンプの印影がこの形の蝶の絵になっています。
実際に投扇興で遊んでいるとわかりますが、扇の飛び筋によっては、勢い余って蝶の鈴の糸を切って鈴を落としてしまうことがあります。この蝶もその例に漏れず、鈴が2つとも失われてしまっています。それを考えると、上の初期の蝶は実に保存状態がよいと言えるかと思います。
そして3つ目は、現在も京都で営業している扇の老舗・宮脇賣扇庵による道具ですが、大正時代のものだそうです。
現在の蝶(京都も浅草もほぼ同じ形です)とは、微妙に形が違っていることがわかります。しかし、大正時代にはもうこの形になっていること、また明治時代や江戸末期の史料にもイチョウ型の絵が描かれていることから、かなり前からこの形の蝶になっていたようです。
上の2つの形からいつ頃イチョウ型になったのか、もともとの「蝶」がなぜイチョウの形になったのか、今後の研究が待たれます(自分では調べられませんので(^_^;)ゞ)。
こちらは、岡山県倉敷市の日本郷土玩具館所蔵の投扇興道具一式です。菊の花が描かれた枕、そして点式、扇、どれを取っても間違いなく京都の宮脇賣扇庵によるものですが、蝶が上と同じ、やや古いデザインになっているのがわかります。
参考資料:
三一書房「日本庶民文化史料集成」第九巻『遊び』
至文堂「日本の美術」第32号「遊戯具」
京都書院「おもちゃ博物館」第10巻「遊戯具」