明治時代の投扇興事情
〜「風俗画報」の解説より〜

明治22年(1889)に創刊され、大正5年(1916)まで27年間にわたって発行されていた日本初のグラフ雑誌「風俗画報」は、最大の風俗研究誌としても知られています。全518冊の内容は、江戸・明治・大正の世相風俗・歴史・文学・事物・地理・戦争・災害という全ての分野に及びます。

さて、投扇興は江戸時代に流行し、明治期にはすでにいったん衰微していたらしいのですが、「明治初期まで流行していた」投扇興を解説している文章が、明治33(1900)年に発行された「風俗画報」第219号の中の21ページから23ページに紹介されています。
投扇興の解説といえばまずは「投楽散人其扇」からということで、前半は例によって投扇興の起源について。そして後半部分は当時(明治時代)の投扇興の実態について言及しています。
著者は「好古道人」(ちょっと読み方がわかりません。検索もできなかったので、単なるペンネームかも)という人で、さすがに文体が現代とは全く違うので内容を把握するのが大変なのですが、投扇興の「関東と関西の違い」特に姿勢の違いについての論評なども見られ、大変貴重な資料となっています。
そして、源氏物語形式の54種の銘定の解説も載っていて、これがさらに興味深いです。源氏物語形式といってもいろんな解釈があり、1つ1つの銘の判定方法も文献によってまちまちなのですが、ここに書かれている判定方法は、たとえば「扇と的の間の距離がどれくらいまで」等と、実に具体的に書かれています。
現代の判定基準などと比較してみるのも面白いと思います。

銘定の前の文章がちょっと難解なので、まず読み方が(私にとっては)難しい部分には括弧書きでフリガナをつけ、あと意味に関するコメントへのページ内リンクを張っておきました。その後に、私による拙い現代語訳もつけてみました。
あくまでメインは、後半の源氏物語形式の銘定部分です。そちらについてはページを分けました。

フリガナ以外で大括弧【】でくくられた部分は、元の文章では行の中で一回り小さなフォントで2行に分けて詰め込むように書かれているもので、古い書物ではよく見られるものです。注釈のように読めるので、ここでは括弧書きにしてみました。


原文

●投扇興につきて
牛臥 好古道人

投扇興は、其(その)はじめ漢土の投壺(とうこ)の技より出づ、投壺の技は、平安の代、既に我国に傳(つた)はり、正徳の頃には大内にても行なはれしといふ、これ壺中に向て矢を投け、矢の坐りたる位置によりて、種々の名を附し、優劣を判したるものにて、安永の頃江戸の儒者 田中江南 其法(そのほう)を究(きわ)め、投壺指揮、投壺姿勢圖解(ずかい)等を著したることありたれとも、此頃迄(このころまで)は全く公卿(くぎょう)武家(ぶけ)公達(きんだち)の娯(たのし)み事に止(とど)まり、世にはあまり知られさりき。
然るに何時(いつ)の頃なりしか、其扇(きせん)といへる人、一日晝寝(ひるね)目醒(めざめ)たる時、一羽の蝶枕の上に止り居しかば、傍(かたわ)にありし扇を取りて之に投付けしに、扇は枕の上に残り、蝶は遥(はるか)に舞ひあかりたるを見て、其様(そのさま)の如何にも妙なるに威(おど)し、再ひ三たひ之を試みしに、扇は枕の前後左右に落ちて、其上(そのうえ)に載ること難かりしかは、此に始めて投壺の技と思ひ合せ、彼此(かれこれ)取捨折衷(しゅしゃせっちゅう)して、別に新方法を定め、文銭五個を錦襴(にしきらん)又は金銀紙に包みて蝶にかたとり、木枕の上に据(すえ)て、扇を投けて其(その)落る位置により、百人一首の歌に基(もとづ)きて、高砂、白砂、小筵(さむしろ)、春の野、假寝(かりね)、山櫻(やまざくら)、沖の石、小倉山、千鳥、軒端、橋立、筑波根なとさまざまの名を附し、又點數(てんすう)をも定め、始めて投扇興とは名づけたるなり、此技(このわざ)は斯(か)く投壺の技に擬(なぞら)へたるものなれは、禮儀(れいぎ)正しく卑しからす、席上の娯(たのし)みには此上(このうえ)もなきものなりしかば、世の人々次第に廣(ひろ)くもてはやす様になりたり。
然るに大坂の人某は、更に工夫をこらして、其(その)變化(へんか)の有様を五十四種に分ち、之を源氏物語五十四帖の題號(だいごう)に因(より)て、名と點數とを改め、花散里、野分、橋姫、浮舟、明石、夢の浮橋なとおのづから其意味をあらはし、此技の為に一層の趣きを添へたり。
然るに普(あまね)く流行するに従ひ、悪風を生し、文政の頃には、江戸の辻々に見世をかまへ、作法もくつれ、賭事をもなすに至りしかば、其五年八月に、幕府より一度之を停止せられき。依て其頃の熱心家は、痛く之を嘆き、盃盤狼藉(はいばんろうぜき)諸勝負堅く禁すとの規則を立て、又禮法(れいほう)をも巖(きびし)く正し、深殿玉樓(しんでんぎょくろう)の内、冬の樂(たのし)み春の慰みとはなしぬ。されは夫(それ)より後は、文政年間の如く盛ならさりしも、亦(また)悪弊もなく興(おこ)らす衰えす、戊辰の頃迄、都鄙(とひ)各所に行はれたり。明治維新の改革にて、遊戯事は凡(すべ)て衰へ、此技(このわざ)も亦(また)殆(ほと)んと其跡(そのあと)を絶(たた)んとせしか、幕府の麾下(きか)多く駿府に移住し、再ひ明治四五年(し・ごねん)頃迄流行せしも、時世の變遷(へんせん)につれ、且(か)つはトランプなどの遊具入り來たりて、暫(しばら)く影をひそめしが、近年に至り先きに廃(すた)れたる諸遊技共復古の趣きありて、此技も亦(また)此處彼處(ここかしこ)に其姿を現はし、器具をひさぐもの又たづぬるもの、東京市中にも見受けたれは、昔なつかしく、本年此地(このち)に避暑のつれつれ、其由来のあらましを記し、併(あわせ)て一二の方法を、世に紹介することとはなしぬ。
其扇の古式は暫らく置き、坊間(ぼうかん)廣(ひろ)く行はれたるは、風爐(ふうろ)前屏風程の低き臺(だい)に、毛氈(もうせん)を敷き、其一端(そのいったん)より扇を開きたる丈(た)け三ッ程の處(ところ)に【凡(およそ)三尺二三寸】箱を直し、其上に蝶【板目紙にて心(しん)を作り種々なる布を張り銀杏の葉の如く製し表に源氏香の圖(ず)を書き下に文銭五文を重ね付け坐りのよき様になし左右に二個の鈴を付す】を載せ、投扇者は臺(だい)の前に座を占め、右手に扇の要を取り、臂(ひじ)を臺の上につき、左手は膝上に横(よこた)へ扇を腮(あご)の通りに持ちて、扇の骨の間より、蝶を的に見て投るなり。
此蝶は大抵高三寸巾四寸五分、扇八丈八寸四分八本骨片張り、箱は三寸四方高六寸【古(いにしえ)の木枕の寸法に基きしものにて通称枕と呼ぶ】位にして、黒塗に源氏の繪模様(えもよう)など蒔絵(まきえ)したるものなり。此式は姿勢前に屈(かが)み、右扇さがり醜く且(かつ)辻々に流行し、作法もくづれ品格も落ちたれは好ましからす、之にひきかえ、深殿玉樓(しんでんぎょくろう)の内に行なはれしといふは、此諸點(このしょてん)を改良したるものにて、姿勢作法も正しく、品格も高尚にして、花合せトランプの比にあらされは、文人雅客の清遊に適すべし。
其仕方は席の中央に、大さ三尺四方位、高一尺一寸五分程の臺(だい)【机の如きもの】を設け、之に毛氈(もうせん)或は猩々緋(しょうじょうひ)或は相當(そうとう)の敷物を掛け、臺の中央より少し前に箱を据え、蝶を載せ投扇者席は、此箱を距(へだて)ること扇を畳みて三ツ半【(凡(およ)そ三尺前者は前に屈むを以て距離大抵等きなり】の所とし、彼に正しく坐を占め、始むるには一禮(いちれい)をなし、右手に扇の要を取り、左手は膝に置き、體(からだ)は前にかかまぬ様にし、扇地紙の中心より蝶をねらひ投くるなり。此式の扇は異ならされども箱及蝶は前者(注:つまり前かかみになる江戸流の形式)より稍(やや)小にして蝶は高二寸五六分巾三寸、箱は二寸二分四方高五寸六七分位にて、總高さは臺敷物共に、蝶の上迄凡二尺を法とす。之に使用する箱は、重からさるを良とすれは、大抵桐の白木にて作り、繪模様を書けることは前者に同し。
以上二種共に扇數十二囘(かい)(四季十二ヶ月にかたとる)にして總點(そうてん)を算し、四百點三百點二百點の三等に分ち、天地人とし優劣を判するなし。然し各點數は人々によりて、多少の差異あれども、實際(じっさい)施して比較すれは、左記の表こそ能(よ)く其(その)權衡(けんこう)を得たるものなれは、寫(うつ)して嗜好家(しこうか)の一覧に供す、但し印刷にて店頭に販賣(はんばい)するものには、圖解點數(ずかいてんすう)共に誤謬(ごびゅう)あれば注意せらるべし。    

コメント

  1. 牛臥(うしぶせ?)というのは、静岡県の沼津市の海岸のことか。つまり著者の居住地? 本文によると、避暑地のようでもあります。
  2. 正徳年間とは1711〜1715、享保の前の5年間
  3. 盃盤狼藉とは、酒盛りのあとの、杯や皿、鉢などが席上に散乱しているさま、だそうです。
  4. 深殿玉樓も辞書を引いたのですが、読んで字の如く「立派な楼閣で」のような意味のようです。
  5. 都鄙は「都会でも田舎でも」。鄙というのは、「辺鄙(へんぴ)な所」の「鄙」です。
  6. 麾下というのは将軍直属の家来、旗本、あるいはある人の指揮下にあることで、ここでは前者の方か。
  7. この、源氏物語54帖に見立てた銘定を考案した大阪の人物というのが、まだ(私には)よくわかりません。これから勉強します。
  8. このあたりは今ではどこの流派でも見られない姿勢ですね。投者の前に台を置いて、そこにひじをついて投げていたとは。明治時代の投扇興独特なのでしょうか?
  9. 猩々というのは体の大きい猿の一種。あるいは想像上の、長髪赤顔で言葉がしゃべれて酒が好きな獣のことだそうで、つまり「猩々緋」というのは、その獣の顔のような赤い色の敷物、ということでしょうか。
  10. 権衡というのは「つりあい」のこと。
  11. 現在では、東京浅草の姿勢は前屈みになるのが基本で、京都の戸羽流や都御流、円満院などでは「背筋を伸ばして」投げるように言われていますが、ここの記述からはっきりと「最初は前屈みだったが、見苦しいということで改良された」ということが読みとれます。
    言うなれば、江戸時代から(明治〜昭和初期を経て)現代に蘇った浅草の投扇興は庶民の遊びをそのまま体現したものであるのに対して、京都で復元された投扇興は、高尚な上流階級の遊びを再現しているということでしょうか。

現代語訳

これだけだとあまりに読みづらいので、私なりに解釈した内容をまとめてみます。あちこち違っているかもしれませんので、訂正やご指摘は歓迎します(^_^;)。

●投扇興について
牛臥にて  好古道人

投扇興の起源は、漢土の投壺(とうこ)の技にある。投壺の技は、平安時代にすでに日本に伝わり、正徳(1710年代前半)の頃には皇居でも行なわれていたという。
この遊戯は、壺の中に向かって矢を投げ、矢のとどまった位置によって様々な名前を付けて優劣を決めるもので、安永(1770年代)の頃の江戸の儒学者・田中江南が研究して「投壺指揮」「投壺姿勢図解」といった書を著しているが、この頃までは全く公家や武家の娯楽にとどまり、一般世間にはあまり知られていなかった。

そうした折り、いつ頃のことかは正確にはわからないが、投楽散人其扇という人が昼寝をしていて、目が覚めた時に一羽の蝶が枕に止まっていた。そこでそばにあった扇を取って投げつけてみたところ、扇が枕の上に乗り、蝶ははるかに舞い上がった。それを見た其扇は、その妙なる様に驚き、二度三度と試してみたが、扇は枕の前後左右に落ちてしまって、上に乗せることは難しかった。
ここに初めて投壺の技と思い合わせて、いろいろと取捨折衷し、それとは別に新しい方法も定め、文銭五個を錦襴や金銀紙に包んで蝶にかたどって的とし、木枕に置いて、扇を投げてその落ちた位置により、百人一首の歌に基づいて、高砂、白砂、小筵(さむしろ)、春の野、假寝(かりね)、山櫻(やまざくら)、沖の石、小倉山、千鳥、軒端、橋立、筑波根など様々な名前を付けて点数も決め、初めて「投扇興」と名づけた。
この遊びはこのように投壺になぞらえたものなので、礼儀正しく卑しくなく、席上の楽しみとしてはこの上ないものであり、世間の人々が次第に広くもてはやすようになった。
さらに大阪のある人が工夫をこらして、扇と蝶の変化のありさまを54種に分類し、源氏物語54帖の題号にちなんで名前と点数を決め、花散里、野分、橋姫、浮舟、明石、夢浮橋など、名前から自然と意味を表し、この技のために一層の趣きが添えられた。
しかし、広く流行していくに従って悪い風潮も生まれた。文政の頃(1820年頃)には、江戸のあちこちに店をかまえ、作法も崩れ、賭けの対象にされるに至って、文政五年八月にはついに幕府からいったん投扇興の禁止令が出されてしまった。そのため当時の愛好家はひどくこれを嘆き、乱雑な場所で勝負を行なうことを堅く禁ずるという規則を作り、また礼儀作法も厳しく正し、立派な楼閣の中での冬や春の娯楽とした。これによってそれ以降は、文政年間ほど盛んではないにしても、悪弊もなく興るでも衰えるでもなく、戊辰戦争の頃(慶応四年〜明治元年)まで都でも田舎でもあちこちで行なわれた。
明治維新の改革で遊戯は全て衰え、投扇興もまたほとんどその跡を絶たれようとしていたが、幕府の将軍直属の家来たちが駿府に移り住み、再び明治4〜5年頃までは流行した。しかし時代の変化により、さらにトランプなどの遊具が入ってきたことによってしばらく影を潜めていたが、近年(明治30年頃)になって諸遊戯の復古の動きがあり、投扇興もまたあちこちに姿を現わし、道具を携帯する者や捜し求める者が東京市内にも見受けられるようになって、昔なつかしく、本年(明治33年)この地(牛臥?)に避暑に来たついでにその由来のあらましを記し、あわせて1〜2の方法を世間に紹介することにした。

投楽散人其扇による古式についてはしばらく置いて、明治33年現在広く行なわれている遊び方は、お茶席で用いる風炉前(先?)屏風くらいの低い台に毛氈を敷いてから開いた扇3本分ほど離したところ(およそ三尺二三寸…1メートルくらいか)にを置き、その上に板目紙で芯を作り、色々な布を張ってイチョウの葉のように作り、オモテに源氏香の図を描いて、下には座りをよくするために文銭五文を重ね付けて左右には二個の鈴を付けた物)を乗せて、投扇者は台の前に座り、右手に扇の要を持ち、ヒジを台の上について、左手はヒザの上に横たえ、扇はアゴのあたりに持って、扇の骨の間から蝶を的に見立てて投げる、というものである。
この蝶はたいてい、高さ三寸(約10センチ)で幅が四寸五分(約15センチ)、扇は八本の骨の長さが八寸四分(約27センチ)で片面張り、箱は一辺が三寸(約10センチ)の正方形で高さが六寸(約20センチ)(昔の木枕の寸法に基づいたものなので、通称「」と呼ぶ)くらいで、黒塗りに源氏の絵模様など蒔絵を施したものである。
この方式は、姿勢は前かがみになり、右手の扇は下がって醜く、かつ市井に流行したため作法も崩れ品格も落ちたので好ましくない

それに引き換え、深殿玉樓(しんでんぎょくろう)の中で行なわれたという方式は、これらの諸点を改良したものであって、姿勢や作法も正しく、品格も高尚なもので、花札やトランプの比ではないので、文人雅客の雅な遊びに適したものである。
そのやり方は、席の中央に大きさ三尺(約90センチ)四方で高さ一尺一寸五分(約34センチ)ほどの台(机のようなもの)を置いて、これに毛氈あるいは猩々緋あるいは相当の敷物を掛け、台の中央より少し前に箱を据えて蝶を乗せる。投扇者の席は、この箱から扇を畳んで三つ半およそ三尺…90センチ、前の市中の方式より近いが、そちらは前かがみの姿勢のため、距離としては大体等しくなる)の所とし、正座して、始める時には一礼をし、右手に扇の要を持って左手はヒザに置き、体は前にかがまないようにし、扇の地紙の中心から蝶を狙って投げる
こちらの方式は、扇は違わないものの、箱と蝶は前者よりやや小さい。蝶は高さ二寸五六分(約8センチ)で幅三寸(約9センチ)、箱は二寸二分(約6.6センチ)四方の高さ五寸六七分(約17センチ)くらいで、台、敷物、箱、蝶を全て合わせた高さは、蝶のてっぺんまででおよそ二尺(約60センチ)を決まりとする。これに使う箱は重くない方がよいので、たいてい桐の白木で作り、絵模様を書くのは前者と同じである。

以上の二種ともに、扇を投げる回数は12回(四季12ヶ月にちなむ)として総合点を計算し、400点300点200点の三段階に分けて天地人とし、優劣を判定する。しかし各点数は人によって多少の差異はあっても、実際にやってみて比較すれば、左記の表(注:別のページにて紹介します)がバランスよくできているものなので、写し取って愛好家のために提供するものとする。ただし、印刷して店頭にて販売されているものの中には、図解も点数も誤りのあるものが見受けられるので、注意されたい。


対照表

だらだらと文字で説明しても比較しづらいので、さらに表にまとめてみましょう。

  前者(庶民) 後者(上流)
席の設置 低い台の上に毛氈を敷いて座る。
枕は台から、開いた扇3本分離した位置に置く。
投者は台の前に座る。

枕 \/\/\/ 台 人
席の中央に90cm四方で高さ34cmの台を置く。
その台に敷物をかけて、ほぼ中央に枕を置く。
枕の位置から、畳んだ扇3本分離れた所に正座。

枕 = = = 人
姿勢 右腕のヒジを台の上につく。
左腕はヒザの上に横たえ、前かがみ。
左手はヒザに置く。
体は前にかがまないように。
狙い目 扇をアゴのあたりに構えて、扇の骨の間から蝶を狙う。 扇の地紙の中心から蝶を狙う。
高さ10cm、幅15cm 高さ8cm、幅9cm
底面10cm四方、高さ20cm 底面6cm四方、高さ17cm
蝶の位置 枕の高さ+蝶の高さ=30cm 台+枕+蝶=60cm