日本遊戯史
酒井欣 著
東京 建設社 1934(昭和9)年6月刊行
定価6円80銭


この書物の中には、現在の其扇流の作法の元になったと思われる記述があちこちに見られ、非常に興味深いものとなっています。
あと、現代でも見られる「行司」と「行事」の揺らぎがここでも確認できます。やっぱり誤植ですよねぇ??


第17章 投壺と投扇興

 上代に於ける日本の文化がすべて唐文明の模倣になるものなることはいまさらいふまでもないが、投壺のごときももと唐朝時代に創案されてやがて日本に傳来したものの一つであつた。投壺の種類には、三寸・二寸半・二寸・一寸六分・一寸五分・四寸・五寸等で、その耳は三寸・二寸五分・一寸五分・一寸・七分・四分等で、高耳・低耳・環耳・貫耳等にわかれ、壺のみ三十八品種に渉ってゐた。また籌(かずさし・かずとり)は漢竹矢・羽矢・晋籌・九扶・五扶・四扶・三扶等のほかいく種かがあつたといふ。『倭名抄』に、投壺 投壺経(内典云豆保宇知)古禮器也とあるが如く、もと唐の古禮器で禮節もつとも備はるといはれたほどであつたが、晩年俳劇の具となるに及んで遂に禮器として用ひられなくなつてしまつた。日本に投壺が傳来したのは詳らかではないが恐らく當時の遣唐生乃至は唐朝より渡来せる唐●(にんべんに「曾」)なぞによつてもたらされたのであらう。かくして上古に於いては貴顯公達によつて盛んにもてあそばれたのであらうと想像さるるのであるが、その確證とすべきものがないので、これを徳川氏時代に編入することとした。かくて徳川家の中葉時代、所謂江戸文化の擡頭につれ、江戸市民のくはだてによつて安永年間に復活の曙光に接したのであつた。『武江年表』に、「安永四年九月、投壺の技行はる、京より流行のとみえて、大内能耳の門人田江南といふ人投壺の禮を研尋し其法を傳ふ。投壺指揮、投壺矢勢圖解等を梓行せり。」とあれば前説の證となしうると思ふ。もとこの投壺は司馬温公の創見になるといはれ、温公自ら新格を定め、投壺格範を作つて一層意義あらしめたといはれる。『遊學往来』に、改年初月の遊宴とあれば、往時は主として正月月初のもてあそびになつたのであらう。

 その遊法は−−まづ投壺をなすに際しては座席に毛氈を敷き、その中央に候板を施し、その上に壺をおき、矢●(つつ。「蛹」のつくりに竹かんむり)(矢立)に籌一手づつを入れ、毛氈の端と壺との中央に、青龍の矢は東、白虎の籌は西に置く、東西に中局と計局とがあつて、矢算をとる戯者(矢を投ずる人)が出座して毛氈よりやく二尺ほど手前にて一禮をなして進み、毛氈の際まで進み、両手にて矢●(つつ。「蛹」のつくりに竹かんむり)をとり、同じく両手にて矢を抜き、左の手にて握り、矢を左の膝の上に竪にして持ち、左の手で右の手に握つてゐる矢を一本とり、壺の底の所へ竪に置き、又その次次と三本置き、さらにまた一本横に置く。 あだかも撞木状の形状となる。かくて座をかため、矢を一本づつ取りあげ、壺に向ひ合ひ、相方互に一禮して両側の者より等しく投矢を初める。そのさい左肩と右肩との均整に注意し、豫め肩の崩れぬやうに注意する。但し矢は壺の上五寸位の位置にて垂直になつて壺・耳いづれかに落ち入るのでなければ、眞の中とはいへないのである。ゆゑに壺の上に矢の立つやう十分の注意をはらはなければならない。かくして互に十二箭投矢し終つて一一記録に載せ、算數によつて勝負を決するのであつた。

勝のことをといひ、負のことを不勝といふ。持のことは釣、一番を一壺あるひは一競といひ、一相手は一●(耗のヘンに蝸のツクリ)、一壺は短競、三壺は長競、負退を更代なぞと稱し、負者には罰杯として一壺に一杯また一算に一杯、賢者は慶爵三番勝の場合酒三献、負者は綽興と稱して酒を飲まず、謡ひでも謡つてこれを肴とし勝者を犢ふのであつた。

大壺投げは、大きな壺ばかりを投じるのであつて、壺の耳をぬくことは爲ないのである。常投法は一格。構板は八格で、外に五十章あつたといふ。
投耳法とは壺を投ずることをいふ。壺の耳ばかり投げる法であつて、これ亦百章あるといふ。
参投法は、壺の両耳を次第を立てて投げるのであつて、また百章、二百格あるといふ。
奇投法は遠方より矢を投じたり或は横合より投矢をなす折りの稱呼である。これには七十法、三十二法、三十一格あるといふ。
箸法とは俗間に使用さるる杉箸を矢にかへて投矢するをいふ。つまり即席の折りなぞに行はるるのであつて、この箸法には三百箸の格式があつた。
驍とは反箭を投げるをいふ。その法二百格あるといふ。
但し投壺する人と壺との間隔には年齢によつて相違があり、七歳以下の人は二箭半、十歳以上の人は三箭の距離を置いて投矢するのであつて、衰尺は三箭半より半箭づつ落して四箭半より十箭に及ぶのであるといふ。

大壺常投格籌勢名目
●(金の下に口?)容算位二十一章 以下中、本一算に褒美幾純と記する。

有初
(いうしょ)
一の矢の中(あた)るをいふ。有初連中と稱するは第一矢が當つて、第二矢が続いて當るをいふ。
貫耳
(くゎんじ)
壺の耳に當りしは、口に當りしより高點にて賞十算、十點に該當する。
連中
(れんちゅう)
第二番目の箭より最後まであたらざる時は五算と稱して賞五つを授與される。
散箭
(さゆき)
何れの矢にても前に続かず、離れて一本あたるをいふ。一算といひて賞一つを受く。
初有貫耳
(しょいうくゎんじ)
初矢が壺の耳を貫ひたものは、賞翫して右二十算の賞を受ける。一本二十點を受く。
連中貫耳
(れんちゅうくゎんじ)
初矢二の矢の外貫耳のものはやはり二重點にあたひする。
横耳
(わうじ)
矢壺の耳を貫くは偶然の結果であつて、投壺する人の本志に反するから、僅か一本の賞に値ひするのみである。
横壺
(わうこ)
矢壺の口に矢が横たはつたときは横耳の時と同じく一點である。
倚竿
(いかん)
矢が壺口に斜めになつて止まつた時はゆるして數に入れる。しかし後に矢が落ちた時は不當と同じ結果となる。
耳倚竿
(じいかん)
矢壺の耳に斜めに矢が止まつた時は、全壺の時は一本の點數となるが、後矢全部があたらざる時は無點となる。
倒竿
(たうかん)
矢が逆しまに●(よく読めませんでした(^_^;))つて壺口より垂直に投入せられたる時は總ての得點を失ふ事になる。
倒耳
(たうじ)
倒竿の例と同じ。
全壺
(ぜんこ)
全壺とは十二本の投矢を完投した時の稱呼で、兩人全投の時は組合の方の勝てる方が勝となる。
有終
(ゆうしふ)
有終は十二本目の矢が初めて壺に當りたる時初矢を有初といへるにたいし、有終の稱呼があるのである。右は壺口の時十五矢に値し、耳の時は三十矢となる。
驍箭
(げふせん)
驍箭は投矢が壺に當つて刎ね返つた時または壺口より躍り出て再び投矢して當つた時の稱であつて、もし貫耳なる時は、その賞常の貫耳と同じく。當らざる時は十矢にあたひするのである。
帯劍
(たいけん)
帯劍といふのは、貫耳を貫ひても矢が下に落ち著いてゐないから、賞には入らないのである。
龍首
(りゅうしゅ)
ゆがみて當り矢がわが正面に向ひたる時を龍首といふ。舊式(きゅうしき)法では十八矢に値ひするといふが、司馬温公の新格式では數に値ひせぬ事になつてゐる。
龍尾
(りゅうお)
投矢の羽が正しく投矢者の方に向ひ立つ時舊格式ではこれを十五矢に値ひするといつてゐるが、温公の格式によれば算に値せぬ事となつてゐる。
浪壺
(らうこ)
口を廻りつつ斜めに壺中に立ちたる矢をば舊式では十四矢に値ひするといはれてゐたが、温公の新格式では算に値ひせぬ事になつてゐる。
敗壺
(はいこ)
十二本全投して一本も當らぬ時の稱呼である。もし雙方(そうほう)敗壺の時は組方に矢のあたり多き方を勝ちとする。

 以上は司馬温公によつて定められた投壺格範を主としたものである。これによればさしも難解といはるる厳粛そのものの如き投壺格式の常識もいと平易に諒解しうることと思ふ。
 投壺は半聖・半仙の戯れといはれ、當時代の有閑階級の人人によつて盛んに酒間の興に供されたのは事實であつた。
 『幽遠随筆』坤の巻に、

投壺の遊は、その始め既に久しく、禮記に投壺の篇ありて、ことに漢武の世に詳しく、昔は其の籌も棘のおどろおどろしき物を用ひしが、後は呉竹のすなほなるにかへ、その法(のり)は古(いにし)への古きによつて定め、その妙は今に至つてきはむ。技に長じたるものは養由が歩をも恥ぢず、宗高が扇にも肝つぶさず、もろこしには王侯の前に宴の興を扶け、我國には青楼の席に風流士の心を悦ばしむ、其の形は瓢に似てかしまかしからざれば、許由が譏(そし)りもなく、腹に亦小豆をたくはへながら、高帝子が祭りにも奪はれず、一つの口、鼻の如く守り、二つの耳、浮世の事を聞かず、唯宴席に侍りて楽しみを専とす、もとより是を投るに錢を賭せざれば博奕のそしりを免ぬかる。(中略)嗚呼いたれる哉、投壺投壺。弓は袋に納めたれば手をもつて籌を投げ矢に簇(やじり)なければ、損ひ破る事なし、實に太平の姿なり、壺中の赤い豆に千代をかぞへ、呉竹の矢に萬世を祝ひて、永く君が代の翫(もてあそ)びとすべし云々。

と、かく評判さるるによれば如何に投壺が雅遊として當代の人士の歓迎にあたひしたかが想像されうるであらう。しかしかく評判されたにもかかはらず、あまり遊法が厳格に失したので、
早くも安永の中期には廢滅に瀕するに至つた。『蕪村句集』に、

いざさらば投壺まゐらせん菊の花  蕪村

とあれば、その後間もなく遊戯的生命を失つたのを認めうると思ふ。この投壺の衰退によつて新たに玩具として又遊戯として出現したのが投扇興であつた。投扇興はその形状宛も方枕の如き形體をしたもので、これに金銀泥をもつて散る紅葉などを描き、この上に蝶の姿に眞似た紙包をのせ、これを的がはりとなし、扇面を開いてこれに投じ、あたりかたによつて優劣を判じ、點の多少をかぞへて勝負を決するのであつた。その點にはそれぞれ異なる名目があつた。初めは百人一首の歌からとつたが、のち源氏五十四帖の名に因むやうになつた。

投扇興の起因は『投扇式序』によると、江戸に投樂散人其扇と呼ぶ通人があつた。彼は頗(すこぶ)る投壺に熱狂してゐたが、安永二年水無月のある日、晝寢(ひるね)の夢を貪りつつあつた所、ふと目覺むるともなく目覺めてみると、いつ寢はづしたとともしれぬ木枕の上に胡蝶が一羽翅を休めてゐた。ふとした氣紛れから枕頭にあつた白扇をとつて胡蝶をめざして發止と打つと、扇は半開のまま要先を方枕の上に止め、胡蝶は巧みにのがれて翩翻(へんぽん)と簾の外に飛び去つてしまつた。
多年投壺の投矢法で鍛えた腕であつたから、めつたに覘(うかが)ひ外しのあらうわけはないのだが、それにしてもよく枕の上で扇がとまつたものだと、その偶然の結果が非常な興味となるに至つた。かくて再度扇を枕に投げてみたが、初手とは異つて枕の上に扇を止めることは容易に出来なかつた。かうしてそれを執念(しゅうね)く繰り返してゐるうち、ふと投壺の投矢法をから思ひついて、通寶十二字を懐子紙に包み、それを方枕の上に胡蝶の身替としてのせ、投扇してその包みを打ちおとしてゐるうち、いつか手練を積んでつひに十二包を片つ端から打ち落すやうになつた。かうしたことから、あの投壺のわづらはしい儀式より、はるかこの投扇のはうが興が深いとの考へと、この創意を酒間の興にもてあそんだらさぞ面白からう。との思ひつきから、かの晝寢の賜ものになるこの遊戯に投扇興と名づけ、盛んに宣傳(せんでん)したところ、頗る時流に沿ひ、人氣に投じた結果、つひに投壺の勢望をしのいで投扇興の流行となるに至つたのであるといふ。果して投樂散人の晝寢の夢のたまものかどうかは疑問とするも、投壺の投矢法より案出せられたものであることには異論がないのである。
この投扇式に記述さるる席法・竝(ならび?)に禮式の次第書によると、

一、席法の事
一、枕の前後に席を定め、枕より扇のたけ四ツ或は三つを隔てて座す。左に字扇取役一人。右に銘定行事一人。但し、記録を附る役人他外に一人。

二、番數を定め投扇する事
一、一席を假りに十番と定め又五番にてもよし、但し高砂、白妙を打つ時は褒美として度中一盃づつ飲むのであつて、又嵐・瀧川を投れば過料としてその人に二盃の罰盃を飲ませるのであり、その定めの中に高砂白妙を打てば過料たる罰盃を免ぜらるるのである。

三、席上の事
一、猩猩緋乃至羅紗又は更紗・毛氈之類、長さ八尺幅一尺七寸、その敷物の中央に枕を竪に据ゑる。毛氈は尺不足ゆゑ、扇の寸法にて尺だけ退りをること、敷物より要が出る時は負けとなる。

四、枕之事
一、塗枕あるひは蒔繪いつかけ等、但しいづれにても各人の好みによることとする。但し蒔繪としては銘の内にて繪柄のよいものを用ふ。

五、扇之事
一、金銀の扇に極彩色にて山櫻あるひは紅葉銘の内にて繪柄をきめて書かせる。扇骨は十二軒、黒塗蒔繪の毛ぼりのものを用ひる。要は必ず金・銀のいづれかを用ひたといふ。

六、字之事
一、十二字但し文錢錦金入等でこれを布に包み、更に金紙か銀紙にて裏打ちをして包み、金銀の水引にてそれを結び、枕の上にのせて置く。

七、禮式傳
一、通寶十二字を銀紙五寸四方に裁ちて包み、蝶の形に模して玉簾(たますだれ)の水引にて結ぶ。十二字は即ち月の數を表はすので、是を的玉といふ。但し即席の遊は、有合せの紙で一向差支ないが本式の遊びの際は前述の通りにするのを本式とする。
一、扇は十二骨の俗扇を用ひ、地紙は浅黄色、金銀泥にて散る紅葉をあしらふ。即席の場合は有合せの扇を用ふ。
一、枕は常の木枕の寸法と同じく、これにも散る紅葉を金銀にて描くかあるひは梨子地黒塗となす。これを的臺(まとだい)といふ。但し即席の場合は前と同じ。
一、敷物は猩猩緋乃至は緋羅紗あるひは毛氈等であつて、幅は扇丈にたち切つて用ふる。これを稱して投席といふ。但し即席の時は前と同じ。
一、枕と投席の間は四季を象どつてまづ四扇をもつて隔てとなし、投壺の如くに向ひ合つて著坐し、扇を構へ互ひに先投の辭儀(じぎ)よろしくあり、かくて後投扇を始める。投扇は十二度をもつて満投とし、單に假初め(かりそめ)の遊事にさいしても、三十一文字になぞらへ、勝負によつて褒美を與(あた)へ香の如く記録にのせる。百人一首を書くのであるから遊法をみだる事はお互につつしまねばならぬ。
一、投壺の場合はまづ的の中心となる所へ、左右扇のたけ四たけづつ退つて向ひ合ひとなり、投席の中央に的臺を据ゑ、的臺の左右に執事格の者一人と的玉をなす人と向ひ合つて坐る。
一、相撲行事の場合は四本柱を用ふ。柱の太さは三寸廻りぐらゐとし、長さは畳ぎはより天井ぎはまでで、扇ふたたけづつ、屋根は青き土佐紙の類にて張る。もつとも屋根障子は格子みつくろひにてよく、幕は紅・白縮緬を交ぜ幅三布にて四寸、丈は四本柱の四方一ぱいとし、四本柱は紅白の縮緬をもつて捲きあげるのである。東・西を分ち横綱・大関・関脇・小結・前頭と順位を定め組合せ、執事の向ふに坐し、的玉を直す人、軍扇を擧げて勝負を頒つ。これとりもなほさず大角力(おおずもう)における行司役である。

以上で大體(だいたい)投扇興に関する戯禮を終つたから、百人一首に象どつて得點する表十組・裏十組の點數を詳記するとしよう。

(注:次に挙げるように、裏は「十二組」の誤りです。
なお、図が添えられていないので銘定の詳細は不明で、他の説明がどれだけ詳しくても、これでは遊ぶことはできませんね。
「婦女手藝法」の百人一首形式銘定をご参照ください)

表十組
龍川 瀬をはやみ岩にせかるるたき川の 過料二點引
散花 久方の光のどけき春の日に 三點
龍田川 ちはやふる神代もきかずたつた川 七點
秋風 秋風にたなびく雲のたえ間より 八點
富士 田子の浦に打ち出てみれば白妙の 十一點 (但し要枕の脇へはづるる時は八點)
筑波根 つくばねの峰より落つるみなの川 十二點 (字読みたふるる時は八點)
橋立 大江山いくののみちは遠けれど 十三點
千鳥 淡路島かよふ千鳥の啼く聲に 十四點
春の野 君が爲め春の野に出でて若葉つむ 二十點 (枕より扇はづれて下におつるときは十五點)
白妙 はる過ぎて夏来にけらし白妙の 廿五點 (褒美包枕につけば褒美なし)
裏十二組
高砂 高砂の尾上の櫻咲きにけり 三十點褒美
小莚 きりきりすなくや霜夜のさむしろに 廿二點
假寢 浪速江の蘆のかりねのひと夜ゆゑ 廿一點
山櫻 もろともにあはれと思へ山櫻 十九點
沖ノ石 我袖は汐干に見へぬ沖の石の 十八點
小倉山 小倉山峰のもみぢば心あらば 十五點
軒端 ももしぎや古き軒ばのしのぶにも 十二點
有明 ありあけのつれなくみえし別れより 十點 (色扇の下に入る時五點)
玉の緒 玉の緒のたえなば絶えね永らへば 九點
我庵 我が庵は都のたつみ鹿ぞすむ 五點
嵐吹くみむろの山のもみぢばは 三點の過料 (包起る時は過料二點)
手枕 夏の夜の夢ばかりなる手枕に 二點

以上は、包みの打ち落し方扇の當り方につれてそれぞれの名稱によつて特點づけられるのであつて、これは各自の好みによつてきめてもいい規則であるから、その一つ一つについての詳説をさける。このほか『投扇式』によると點數は一扇あるひは十扇と扇の數によつて得點と罰點とをかぞへて行く方法もあつた。
上述のごとく投扇興は投壺と比較して甚だ趣味的であり一般的であつた。投壺が一部の階級に限られたものであるに反し、投扇興は婦女子でも容易に出来る可能性があつたので、創案以降時流に沿つて凡ゆる階級から大歓迎をうけた。すでにこの戯れは當時の公卿殿上人だちの間にまで勢力を有つに至り、近衛関白の御前で、柳原権中納言ほか數卿が集り投扇興の遊事にふけられたことが『続史遇抄』にみえてゐるほどであるから、その盛大さは想像のほかであつた。
しかも文政三・四年に至つて、つひに江戸の盛り場浅草寺境内では中川五兵衛といふ男が賭錢をして盛んに風儀を紊(みだ)すに至つたので遂ひに禁止の制壓(せいあつ)に遭つた事が『武江年表』にみえてゐる。しかしさうした制禁の裏面にあつても決して廢滅する事なく遊玩二つの生命を持續し、明治年間再び流行し、その後流行の勢力を減殺するにはしたが、いまだに廢滅せず一部の階級の間にあつて遊玩二つの生命を持續してゐる。


投壺の説明に限らず、投扇興についても相撲をかたどった正式な場で遊ぶ場合の細かい設定などが詳しく紹介されていて、非常に貴重な資料となっています。