投扇興の起源

 安永二年(1773)の「投扇興図式」(別名:投扇式)の序によると、投扇興は京都に起こったものと伝えられています。別の文献には大阪発祥とする説(「武江年表」の「嘉永二年(1849年)七月」の条より)もありますが、ともかく関西から起こりました。
 そして、この扇を投げる遊びの発想の根元は、中国から伝来した投壺(とうこ、つぼうち)という遊技にありました。しかし、投壺は「彼の投壺の礼法をごそかに、調度数にして其業煩わしきにはしかざらんか」(投扇式より)と誰もができるものではなかったので、気楽な酒宴の席でも、また女性や子供でも手軽にできる遊技として工夫されたのが投扇興でした。
 畳に座って扇を投げるという、現代では滅多に見られない風景から受けるイメージとしては「平安王朝的な雅びさ」を感じさせますし、事実そのように演出して披露している所もあちこちに見られますが、元々は市井の庶民から起こり、庶民の間で流行った遊びだったわけです。
(逆に、ご年輩の方には「芸者の遊びだから」と忌避する向きもいまだにあるようで残念ですが…)

「投楽散人其扇とかや云える人は、花都の産なり、頃しも安永二つのとし、水無月のゑんしょに堪かね、昼寝の夢覚めて、席上残せる木枕の上に、胡蝶一つ羽を休む、其扇傍に有りし扇を取って、彼蝶に投打てば、扇は枕の上に止り、胡蝶は遥かに飛去りぬ、そのさま久しき手練なりとも、斯はあらじと、我ながらいみじき事に覚て、今一度と扇を取つて幾十返りか是れを投るといへども、枕の前後に落て枕上に止らず、是より投壺の遊を思ひよりて、通宝十二字を懐紙に包み、枕の上におゐて扇を以て彼に投、勝負をあらそひ(中略)投扇興と名付て、専是を翫(もてあそび)、遊興の一助となしてより、其業の礼法をあづさにちりばめ書林にあたへしとぞ」 (投扇式・序)

 中国には「胡蝶の夢」という故事があるそうで、それを連想させる創作話のようですが、後の百人一首や源氏物語による「見立て」と同じく、遊び心から出たものでしょうか。枕に扇が乗った「澪標(みおつくし)」の型が、浅草では11点、京都では55点も与えられているのも、これがまさに上記の「投扇興の原点」であるからだとも考えられます。

 その後の投扇興の変遷については、「年表」をご参照ください。