最後に是非心置て頂きたいことは、投席における態度である。第一にこれが室内遊戯であることである。何人もこの優雅な遊びが室内に適してゐることは認めるであらう。次にその遊具が非常に美麗であると同時に、破壊し易いものである。扇子も紙と竹であり、台は桐の箱、蝶は布製、少し手荒にしては忽(たちま)ち破れたり壊れたりする。
であるからその投法は非常にしとやかに出来てゐる。端座して狙つて静かに放す。百人一首の如く緊張極に達し、大声に呼ぶような場面はないが、思はぬ珍型によい点を得て莞爾(かんじ)となる事はある。その静かな中にたのしさがあるのである。されば古人は種々固苦しい礼儀作法を定めて一層慇懃(いんぎん)ならしめてゐる。
現代人は殊に古人にまねて繁文縟礼(はんぶんじょくれい)をする必要はないが、投扇興の味(あじわ)ひだけはよくかみしめてもらひたいのである。他人の打つ場合に故意に大声を発し、諧謔(かいぎゃく)を飛ばし、相手を笑はせて手先を狂はせようとする如きは投扇興道から見て最も忌むべき卑怯者である。或は当らぬを怒つて無茶に扇を投げ、故意に「野分」を出したりするのも亦その亜流である。真の投扇興の味は、蝶を狙つた時の無我の心境と、蝶がはらりとおちて妙なる鈴の音と共におもはぬ珍型を得た時とである。勝負は第二の問題であつて、敵も味方も共にその境地に遊ぶようにならなくてはならない。
しかし遊戯ははなやかでかつ変化の多いのを望む。賞罰や、位階を定めるのはその方面から見て有意義である。がそれにのみとらはれて遊びの真の意味を忘れてはならぬ。余は真面目な投扇興の復活を切望してやまぬ。