ちょっと本文が長くて読みづらいかと思いますので、段落ごとにちょっと行間を空けました。
(イ)投席の設備
投扇興はその初めを投壺に象(かた)どつたもの故、その遊び方には種々な作法礼式が規定されてゐる。まづ遊戯を行はんとする場合には、相当の準備と設置とが入る。これを投席といふ。尤(もっと)もこれは流行当初にはむづかしい規定はなかつたらしく、安永四年に出た北尾重政の絵本世都濃登起にある、投扇図には大した設備もなく行つてゐる。
この前に一寸(ちょっと?)人数について一言しておかう。人数は何人でも差支はない。普通それを二つに分けて、東西或は源平の二組とする。この外に三人の役人が必要である。一人は扇取役人、一人は銘定行司、一人は記録係である。投扇式によれば左に扇取、右に銘定と規定されてゐる。しかしこれは必ずしも三人に限つてゐるものではなく、二人でもよく、一人を扇取と的玉なほしとし、一人を銘定と記録係とする(投扇新興による)或は誰一人で扇取と記録とを兼ねる場合もある(文化版投扇式)ともかく以上の人々をその中から撰んで、あとは全部遊戯に参加するのである。
次に投席は中央に敷物を敷かねばならぬ。投扇式によれば、「猩々(しょうじょう)緋、羅紗(らしゃ)又は更紗、毛氈之類、長さ八尺、幅一尺七寸にして鋪(し)くべし、眞中に枕をすゑ置くなり、但し毛氈は尺不足なる故、扇寸法尺ひさり居るべし、敷物より要出る時は無也」とし、新興には「敷物は猩々緋羅紗或は毛氈等也、幅は扇丈に立ち切て用うべし、是を投席といふ」と規定してある。しかし略式又は即席の場合はこの限りではない。
敷物が敷かれたら、その中央に台をおく、そして台を挟んで両方に二組が並ぶ。そこで問題となるのは、台と人との距離である。古来から種々な規定が設けられてゐる。投扇式には「枕より扇だけ四つ或は三つを隔てゝ座す」と記し、新興には「枕と投席の間は四季にかたどりて四扇を隔つべし」とし、文化版投扇式にも「花台より扇四つだけを隔てゝ双方に対座して云々」とある。この外或は扇三つとし、或は開扇を横にしてその丈の二ツ半乃至五ツ位、或は畳を横に三枚ばかり離れるなどさまざまである。現今では開扇を横にして五つ或は三つなどにしてある、しかし余はこれ等區々(まちまち)たる距離を自ら一定して、畳一畳即ち六尺としてゐる。それは古式の扇四つに則り、開扇の横約一尺五寸に相当するから、その四倍約六尺であり、これが一番定めるに都合よいと感じたからである。
以上によつてほゞ投席の設備は出来たが、もう一つ番数を規定しておく必要がある。それを満投といふが、投扇式には、「一席を十番と定る法也、又は五番とも定」とし、新興には、「投る事都(すべ)て十二遍にして満投す」と見える。しかしこれはその場合の人数の多少によつて異なる方がよく、多人数の時は五番位と定め小数の時十番或は十二番とするが都合がよい。それから扇の数は一人が五本或は二本等があるが、何れも所持の投扇興によつて自ら定まる故、一定することは出来ぬ。しかし五本位が最も興味深く、小数の時は余りあつ気なく興趣が湧かぬやうである。
因みにいふ。昔は様々な贅を凝らしたと見え、相撲にして催す時は四本柱を立て(柱の太さ三寸柱と柱の間は扇二タ丈けだけ)屋根は青土佐紙の類で張り、幕は紅白の縮緬(ちりめん)でつくり、巾三布四寸、丈けは四本柱の四方一ぱいとし東西にわけて、大関、関脇、小結、前頭等の段を定めて組合せ、銘定は軍配団扇(拵様は面は金箔又は錦、高ヘ黒塗或は木地、柄の紐は真紅)を手にして勝負を決定したと新興に見えてゐる。
前頁に安永四年と文化六年の投席の図を示して読者の参考に供した。
其扇庵匠胡注)
試合を進める上で必要になる係として「銘定行司」「扇取役人」「記録係」の3人が必要というのは、微妙に呼び方は違うものの現在の浅草と同じです。
しかし、2人しかいない場合、本文にあるように「行司と記録係を兼ねる」とか「扇取と記録係を兼ねる」というのは実際にはかなり大変で、実際には「行司と扇取を兼ねる」のが良いのですが、なぜそういうパターンが書いてないのか不思議です。記録係が一番手間がかかるんじゃないかと思うのですが。
手間というか、記入や計算というのは集中して正確にやってもらわないといけないので、他のことに気を取られないように配慮してあげないといけませんからね。
枕と投席の間を「扇四つ分だけ離す」のはどの流派でも行なわれていますが、その理由が「四季にかたどりて」だったとは知りませんでした。
また、その「扇四つ」は閉じた扇のことであるとして、現在の浅草の測り方(開いた扇を横に向けて四つ分)が間違っていると主張する向きもあるようですが、実際には文中にもあるように、「開扇を横にしてその丈の二ツ半乃至五ツ位」という実におおざっぱな測り方をしていたり、ましてや「畳を横に三枚ばかり離れる」など、実に自由奔放であったようです。そして、この著者は結局「一畳」というかなり遠い距離を採用しています。
投席に趣向を凝らして相撲の土俵に見立てるというのは、「歌舞伎座の楽屋で投扇興が大流行」を報じた昭和二十年代の記事などで見られますが、この文面にもあるように「投扇新興」(安永3年)にすでに記述があったことがわかります。