二 起原と沿革


(イ)雑芸流行の世相

 由来日本の文化は、時代に応じて種々の波動を表はしてゐるが、最もその爛熟極に達し、且つ純日本的の文化を作つたのは徳川時代であつた。そうしてその文化の最も重な特色は民衆的であつたことである。その兆は既に戦国時代頃から次第に培はれ、織豊時代に成長し、徳川三百年の太平によつて大成されたのである。未だ嘗て日本に出現しなかつた太平の世に逢つた民衆は、今迄芽生へて来た民衆文化を醒醸し美華し形式化させずにはおかなかつた。殊にこの傾向を一層助成したのは商人の富であつた。当時の民衆の代表者といへば商工である。就中大阪堺の商人は利を得るに暁く、元禄年中天下の富の七割は大阪が占めてゐた。江戸の巨商もこの根を洗つて見れば大概関西から出てゐる。それに引換へて武士の窮迫は次第に著しくなり、旗本御家人は借金で身動きもならず、大名と雖も勝手元は火の車で、往々関西の巨商から借用したりした。かういふ形勢であるから、士農工商とはいへ、実勢力に於ては商工は士に勝り、金が物いふ世の中を示現して来たのであつた。
 それ等民衆の勢力が、財界に於て羽振りがいゝと同時に、この成金連や紳商連が、暇に明して驕奢な生活を営み、何か暇潰しの趣向はないかと思案を廻らすに至る。こゝに於てか種々な所謂旦那芸が研究せらるゝに至つたのであつた。加ふるに当時の人々の射幸心は一層これを煽り立て且つ今迄は雲の上人のみの奥深き遊戯も、負けぬ気の町人によつて模倣改作せられ、公家臭味を抜いた民衆的なものとし、従来の専門家をして辟易たらしめるものがあつた。かくして徳川中期以後雑芸流行の世相を生んだのである。
 以上の趣向は豈雑芸道のみではない、すべての方面に表はれてゐる。文学に於ては平民文学として小説、浄瑠璃、稗史(はいし)物洒落本等が出て、和歌に代るに俳句となり、俳句更に転じて川柳となる。音楽に於ても謡曲はすたれて長唄常磐津、清元、歌澤を出し、絵画は狩野派に慊焉たらずして広重歌麿の浮世絵を出す。而して是等平民文化は元禄に調ひ、文化文政に爛熟して、舊日本を代表する、固有の文化を形造つたのであつた。
 投扇興もかういふ傾向の中に生れて来た雑芸の一であつて、実に文学に於ける俳句、音楽の清元長唄、絵画の浮世絵と匹敵し得るものである。敢て江戸趣味といはず、日本趣味鼓吹の上から見ても忘れることの出来ない遊戯の一なのである。

(ロ)投壺から投扇興

 投扇興(叉あふぎ落し)は、投壺から暗示を得て出来たといふ、換言すれば投壺の平民化したものなのである。投壺とは支那の古代に存した一種の礼器であつて、聖人君子の弄ぶ物、後に遊具に変つたものである。和名を「壺打ち」叉は「壺投げ」といふ。日本には古く奈良朝頃に伝つたらしく、奈良の正倉院の御物の中に銅製の壺と、木製叉は竹製の籌が残つてゐる。しかしその遊び方は全然判明してゐない。爾来千年近くも忘れられてゐた、然るに徳川時代に至つて一部好事家によつて復活された。武江年表に安永四年九月投壺の技行はると記し、註に「京より流行せしと見へたり大内熊耳の門人田江南といへる人、投壺の礼を研究し其法を伝ふ、投壺指揮、投壺矢勢図解等梓行せり」とあるによれば、当時京都の文人によつて復活されたものと思はれる。遊具は金銅製の壺と、木或は竹製の籌で、勝負は二組に別れて籌四本づゝ交互に投じ、壺に投入した形によつて、有初(最初に中央に投入する)とか貫耳(耳に投入する)等の名称を附し採点して、最後に勝方は賞を得るのである。後述する投扇興の遊び方と全く一致してゐる。

 かくして復活された投壺も、所謂聖人君子の遊戯であつて、無学者や婦人小供には入り難く興も薄い、故に投扇式の序にも「彼の投壺の礼法おごそかに、調度数多にして、其業の煩はしきにはしかざらんか」といひ或は「尤も投壺は聖人の玩(もてあそ)び、その争は君子也とは世の知る所にして、捨つべきにあらねども、易く玩ぶ事かたし」と述べてゐる通り、民衆的ではなかつた。しかしながら前述の如き平民文化の隆盛につれて、雑芸流行となり、こゝに投扇興を生む事となつたのである。即ち一言にしていへば投壺の如き貴族の遊具が、時代の傾向に伴つて民衆的な投扇興へと変化し叉は外来の遊具が日本固有の遊具へと転化したのであつて、そこに徳川末期の民衆文化の面影が明かに示現されてゐる。

(ハ)関西から江戸へ

 それなら抑々この遊具を最初に考按した人は誰であらうか、安永二年出版の「投扇式」の序によれば、遊びにふさはしい風流な物語りによつて、起原が説かれてある。

投楽散人其扇とかや云へる人は、花都の産なり、頃しも安永二つのとし、水無月の炎暑に堪かね昼寝の夢覚て、席上に残せる木枕の上に、胡蝶一つ羽を休む、其扇その傍らにありて扇をとつて、彼蝶に投打てば、扇は枕の上にあり、胡蝶は遙に飛び去りぬ。このさま久しき手練なりとも、斯はあらじと我ながらいみじき事に覚えて、今一度と扇を取て幾十返りか、見を投ると雖も、枕の前後左右に落て枕上に止らず、是より投壺の遊びを思ひよりて、通宝十二字を懐紙に包み、枕の上に置て扇を以て彼に投げ、勝負を争い酒宴を設けたらんには云々

 投壺が儒士の礼器より出たのと比較して、その起原まで実に民衆的ではないか、よしやこの物語りが偽りにもせよ、かういふ故事を作るところに当時の世相が反映してゐる。
 かくの如く安永二年の夏大阪の人其扇によつて、投扇興は発見せられた。当時の民衆文化の根底が、何れも関西の町人間に起つてゐる状況と比べて、これも同じ系路を踏んでゐることが興味深い、しかしそれはやがて年内に江戸に移つた。そして目ざましい流行をするに至つたのである。
 因みにいふ、山崎美成の随筆海巻堂十六に投扇興の一項がある。その中に

さて西川の絵本の零冊を得たるに、投扇興をもて興ずる図あり、その書表題なし、紙数を記せし所に世中の字あり、尋ぬべし。祐信の絵ならば享保頃の証とすべし。然る時はこの来るも亦古しといふべし

とあつて、この起原に対する一推察を下してゐる。しかしそれは前後の状態から考へ合せて、享保頃まで遡り得るや疑はしい、結局安永二年頃に行はれたと見るが穏当であらう。

(ニ)流行と禁止

 関西に起つた投扇興は間もなく江戸に入つた。それは安永二年の冬頃からであつたらしい。海録巻十八に街談録抄を引いて「安永二冬の初より十二月投扇興」とあり、半日閑話十二にも「冬(安永二年)の初より投扇興流行す」と記してゐる。何人がこれを伝へたかは判明しないが、寝ぬ夜のすさび(片山賢随筆)に吉原の燈籠と題した記事の中に、「また投扇興といふものも桃居がはじめなり、初めは人形をぜんまい機関の如く作りて打たせしが、後には人の打つようになりたるなり、此人余が幼年の時八十余歳なりきと語られし」とあるのは注目すべき記事である。桃居とは江戸駒込の上林小市といふ人であるから、或は彼によつて投扇興が伝へられたのかもしれぬ。しかしながら初めは人がせず人形をぜんまい機関に仕立てゝ打たせたといふのは少し怪しい、或は輸入当時好奇心を煽るべくそんな方法をとつたのかもしれぬ。
 ともかくも安永二年末に江戸には入つた投扇興は安永三年には非常な流行を来した。武江年表を見ると、安永三年甲午條に「投扇の戯行れ、貴賤是を弄べり」とあり、前述の海録にも、「投扇興といふ戯れあり、そは近く安永三年に専ら世にもて興ぜしより、都鄙遍く知らざる者なし、この頃の冊子に投扇興譜といふ小冊あり」と記してゐる。面白いことは江戸のみならず京都の公家達の間にも、これが流行してゐたことで、続史愚抄後桃園天皇の條に、「安永三年六月九日辛丑、於御前有投扇戯、関白内前近衛巳下上達部、権中納言紀光○柳原為人数、殿上人等参仕、頃日此戯世間流行」と見えてゐる。従つてこの遊び方に関する手引書も種々出来た。まづ投扇式(安永二年冬)出で、ついで前述の投扇興が出版された。しかしこの頃の遊び方は現今とやゝ異なるもので、遊具にも相違があるが、その事は後章で詳細に述べるつもりである。
 物に熱し易い代りにさめるのも早い江戸ッ子は、馴れるにつれて興も失つたと見え、それから二年程たつと漸くすたれて行つた。扇容曲の序を見ると、「安永二のとしの頃、投扇興と号て江都に此遊び出来にけるが、やゝ二年ばかり人々もてはやしけるにいくほどなくすたれ行」と書いてある。しかし社会の流行はすべてリズミカルに示現するものであるから、投扇興も亦その後十数年後の寛政年間に流行を来した(武江年表に拠る)この頃になると遊び方遊具にもいくらかの新工夫が加はつて、昔とやゝ異なつて来たらしい。この時投扇興図式や投扇式などの出版がある。引つゞき文政年間にも益々行はれた(江戸風俗惣まくりに拠る)
 しかるにこの頃に至ると、流行はやがて市民の射幸心と結合して、投扇興が博奕と同じく金銭を賭して勝負を争ふ様になつた。これは当時の世相が然らしめたので、当時の徳川文化の廃退期であり、外には外船渡来して、政府はこの交渉に苦しんでゐたが、民間は全く太平に馴れかつ倦(う)みて、種々な刺激を欲求し、淫靡な見世物や、猥褻な物語りが公然と行はれ、人々の射幸心は益々募つて博奕の流行盛に、その他様々なそれを満足させる遊戯が行はれた。故に投扇興が大勢に応じて旧の優雅な意味を失ひそれ等と同様に堕したのも致し方がないのであつた。
 この傾向に対して幕府は勿論等閑に附してはゐなかつた、早速それ等に威圧の手が下つた、唐人踊の禁止された文政五年に同じく投扇興も禁止の厄にあつた。武江年表巻八、文政五年壬午の條に、「投扇の戯世に行はれしが、辻々に見世を構へ、賭をなして甲乙を争ひしかば八月に至りて停らる」と記し海録にも、「その後叉文政に至りても予しれる中川五兵衛といふ者、浅草寺の境内にてこの戯を始めたりしが、公より禁ぜられて止みぬ」と見え、当時の状態がほゞ窺はれるであらう。
 かくして折角の流行の、こゝに一頓挫を来した。たゞ博奕に用ゐない室内遊戯として、一部の人々に弄ばれてゐるのみとなつた。ともかく文政度が投扇興の最も隆盛期といふことが出来る。その後は天保年間に少し流行し、嘉永二年には再び大阪から流行して来た(何れも武江年表による)が、昔程の有様はなく、やがて幕府の瓦解となり、明治の維新となるに及んで、益々萎靡(いび)して仕舞つた。それでも明治十六七年位までは浅草の奥山には昔ながらの投扇興の店が軒を並べてあり、その他の社寺も参詣人の多いところには見世が張つてあり、白首の姐さん達が、投扇の型を諳(そら)んじて客を楽しませてゐたといふ(黒川眞道氏の「投壺と投扇興について」に拠る)
  世変り星移り文化の進展目覚しきものがあると共に、上中流社会には欧風の遊戯が浸潤して投扇興の存在すら次第に忘れられ、下層社会ではより簡単な、より容易い矢場が迎えられて全く廃れ、僅かに一部好事家の間にのみ弄ばるゝに過ぎない哀れな状態となつた。然し一面に於て百人一首は決して衰へず、益々青年男女に愛玩され、花札も亦一般にもてはやされて、冬の炬燵をにぎはしてゐるではないか、余は投扇興の復活のあまりに遅いのをかこたずにはゐられぬ。余は次章から徐(おもむ)ろに遊戯法を記述して、読者の手ほどきをなしその真価を知らしめよう。