〜はしがき〜


 春の日、秋の夜、つれづれを慰むる様々の遊び物は数え挙ぐるに遑(いとま)ないが、中にも加留多(かるた)、花札、トランプなどは、最も吾人(ごじん)の生活を濕(うるお)はせてゐる。然(しか)しながら加留多は練習に相当の日子(にっし)を費やさねばならず、花札は古来の悪習と聯想(れんそう)せられてすべての家庭に容(い)れられず、トランプは最も適してゐるとはいへ外国輸入である所から日本人の趣味と一致せぬ点がないではない。
 吾人の欲する家庭遊戯としては、練習に容易で優雅で且(か)つ興味深く、加ふるに純日本的のものでありたい、敢(あえ)て近頃云々せらるゝ日本主義を振り廻すわけではないが、日本人の心にふさはしいものはやはり日本固有の遊戯でなくてはならない。余はまづこの意味から第一に投扇興をおすゝめする。
 練習は実に簡単である。本書に解く数千言は僅(わず)か数囘(かい)の実地演習によつて苦もなく覚えられる。何人(なんぴと)と雖(いえど)も扇子五本を投げればその呼吸は会得されるのである。次に遊びの優雅な点は喋々(ちょうちょう:しきりにしゃべること)を要しない、台を見、蝶を手にとつて、丹青(たんせい:赤と青)文(あや)なす色彩を一瞥(いちべつ)し、一囘端座し静かに蝶をねらつて扇を投じたなら、その趣は分るに違ゐない。況(いわ)んやこれが純日本的のものであることは、今更いうを俟(ま)たぬ。余は余の知つてゐる範囲の室内遊戯中最も日本趣味に適したものであることを常に感じてゐる。
 更に説くならば、この遊戯は過激に走らず、情にはやらず、楽しみはこの中に満ち溢れ、老若男女静かに愉快に一日若しくは一夕を送ることが出来る。故に古人もその利を説いて

此(この)投扇は児女小童をして即席になし易く、酒宴の席に一座の興を催し、労をやすんじ笑を求むる延気なること叉類なし、木枕(台をいふ)は悠々たる時用うるの具なれば、四海太平の時に順じ、扇を投て互に送るは末広がりの目出度(めでたき)に基く、叉通宝十二字(蝶のことをいふ)は月の数に表はし、何れも祝遊の種なれば云々(投扇式の序)

と賛してゐる。
 読者はその効能を疑ふより、請(こ)ふ先(ま)ず一扇を投じて蝶を落せ、二扇三扇自ら投ずるに至り、数を重ぬるに及んで点はますます増し、新型珍型相ついで起り、思はず愉悦を禁じ得ないであらう。
 いでや余はこの優雅な純日本的遊戯を詳(つまびら)かに説いて、投扇党の参考となさう。